大阪高等裁判所 昭和36年(ラ)344号 決定 1962年2月15日
抗告人 矢野信男
主文
本件抗告を棄却する。
理由
本件抗告理由は別紙に記載する通りである。
これに対する当裁判所の判断は次の通りである。
名は氏とともに人の同一性の認識の重要な資料をなし、社会的意義が大きいから、単なる個人の感情や姓名学上の理由からはその改変を許すべきでないことは勿論であるし、犯罪者がその縁戚者に及ぼす不名誉を出来るだけ軽減しようとする心情は、それとして理解しえないこともないが、そのような不名誉を覆うために改名の手段に訴えることは、名の社会的意義からして許されぬと解するのが相当である。本改名の申立は正当な事由に基かないものであり、これを却下した原審判は相当である。
よつて、本件抗告を棄却することとし、主文の通り決定する。
(裁判長裁判官 石井末一 裁判官 小西勝 裁判官 岩本正彦)
別紙
抗告理由
一、正当の事由不認は一方的解釈の誤認である。
(1) 法律家に於ては非科学的と解釈されるか知りませんが申立人の現在の「名」が「氏」に対し如何に姓名学上悪いか又この「氏」と「名」を組立てた時如何に最悪の運命に支配されて居るかと言ふことは少い犯罪を重ねて最後には死刑に該当する罪まで犯して居る事実を見ても充分証明されると思いますこの場合科学的又文学的のみで行為の二字だけで割切ることは妥当と考へられません。
尚申立人は現在控訴中の身であり今より以上の最悪の運命に支配されると思ふ時自己の不利益並に防禦上に於いても一日も早く改名を必要とするものであります
(2) 戸籍法第百七条第二項の条文即ち
「正当の事由によつて」を解釈して見ると
(イ) 法律上の見地よりの「正当の事由」
(ロ) 一般社会よりの見た「正当の事由」
(ハ) 申立人より見た「正当の事由」の三つに分類して見ますと申立人の場合(ロ)(ハ)の二つに該当するものであり尚申立人が前述した様に自己が著しく不利益であり又他に悪影響を及ぼすと言ふ事実は「正当の事由」と判断し解釈することが妥当と考へるものであります
(3) かかる氏名の変更と言ふ法律を作られることは当然改名を認める事であり申立人を主体として判断すべきと思われるのであります
(4) 動じ易い年令期にある青少年の心境を思ふ時かかる犯罪を打明ける事が出来ませうか
現在もこの秘密は保たれて居ります理解出来る年令期に達すまで夢をこわしたくない人情を知つて戴きたいと思います
又親籍に及ぼす影響は甚大であります
却下書を見ると改名すれば多少解りにくくはなるが戸籍を調べれば判明すると記載してありますが戸籍に強盗殺人等は記入されず改名によつて戸籍上の人物と違ふと判断されればよいのであり又直接関係のない者は戸籍まで見る必要もなく風聞は立たず改名が役立つと思います
(5) この様な面倒な手続並に遠い過去の面倒な事まで数日間にわたつて調べられその上金額は別として手数料まで添へ何等無用の者が徒に改名の申立てをする等は常識では考へられないこれ等の点より見ても申立人の場合却下は解し得ないのであります
参考(原審判)
(大阪家裁 昭三六(家)四九七〇号 昭三六・一二・一三審判却下)
主文
本件申立はこれを却下する。
理由
申立人は申立人の名「信男」を「孝志」又は「幸」に変更することを許可する旨の審判を求める旨申し立て、その理由の要旨とするところは、申立人は通称として永年「孝」の名を使用してきており、かつ、申立人の犯罪によつてその親族が蒙る社会的不利益を最少限に喰い止めることが申立人に残された責務であると考えられ、また申立人の心情として申立人が罪を犯したことを「矢野信男」として旧友知人に知られることに忍び難いものがあり、申立人は正当な事由によつて名を変更しようとする者に該当するから、名の変更の許可を求めるため本件申立に及んだというのである。
しかしながら、当裁判所家庭裁判所調査官の調査の結果によれば、申立人は昭和二十六年十一月二十九日大分地方裁判所において懲役一年の判決を受けて控訴し、保釈中の同年十二月頃から昭和三十三年十二月十三日強盗殺人罪容疑で逮捕されるまで「八坂孝」、「満村孝」を称してきたことは認められるが、これらの氏名はいわゆる偽名と呼ばれるものであつて、その使用が保釈中の所在をくらます方便とした反社会的な動機によるものであり、しかも申立人はその後現在まで引きつづいて上記氏名を使用しているわけでないばかりでなく、申立人の称していた上記の名「孝」とその本来の氏「矢野」とはなんらの関連性がなく、申立人はこれまで「矢野孝」を称したことのないことが認められ、いわゆる通称として永年使用した場合とは差異があるから、申立人のこの点の主張は理由がない。
次に申立人は昭和三十六年四月八日神戸地方裁判所において強盗殺人等の罪により死刑の判決を受け、現在控訴中の者であつて、そのためにその親族がその職業上の地位、縁談、就職その他の社会的不利益をすでに受けまたは将来受けるであろうことに断腸の思いであり、これを最少限に喰い止めたいことを念願し、また申立人がこのような罪を犯したことを「矢野信男」としてその旧友知人に知られたくない心境にあることが認められ、本件申立の動機も申立人のこの純粋な気持からなされ、その苦衷の程は充分察せられるところではあるが、上記の刑は確定していないのみでなく、かりに改名によつて「孝」となつてもその親族は申立人との親族関係が切れるわけでなく、ただ単に第三者から多少わかりにくくなるに過ぎず、その戸籍をたどれば容易に明らかにされるものであつて、その不利益を喰い止めうるものではないし、直接に申立人自身のためでなく他人のために自己の名を変更することは、間接には申立人に影響するところがあるとしてもこれをもつて名を変更すべき正当の事由があるものとは認められず、また旧友知人に知られたくないという申立人の個人的な願望があるとしても、同様名を変更すべき正当の事由があるものとは認められない。よつて本件申立はこれを却下することとし、主文のとおり審判する。
(家事裁判官 田坂友男)